在来型研究の非能率性

1.領域の専門、研究の素人

「予算が少ないために研究ができないとは言わせない」という条件は、研究者に嬉しさより恐ろしさを感じさせるという。

 

 これは一般にはほとんどの研究従事者が、長らく「研究ができないでも構わない立場」に安住してきており、今さら資金に糸目はつけないと言われたからといって、研究進捗の約束などできない実態、さらに言えばそのような能力しかもっていない実態を反映していると言えるであろう。

 

それでもまだ「研究などというものは、そんなに簡単に進むものではない」という「常識」を味方にした言い訳の道が残っているが、これはもはや「予算が乏しい」という大いばりの理由に比べれば内堀の防戦である。

 

実際にそのような純粋に研究能力が問われる場面に直面した研究従事者は、自分が本当は研究のやり方そのものについては、自信を持てるほどの専門性を持っていないことを認識せざるをえないであろう。

 

従来型の研究集団の実態は、地元にある一つの山の、しかも道のあるところまでしか登ろうとしない素人の登山者が集まって「われわれは誰よりもここの山道に詳しいが、この山の頂上にはなかなか行けない」という共通意見を言っているような状態に例えられるであろう。

 

そこに、「よそもの」の本格的な登山家がやってくれば、はじめは地元の人に比べてもたつくかもしれないが既存の山道は途中までしか使わず、道のないところを切り開きながら造作もなく登ってしまうであろう。

 

これまで、研究の世界には、この話における登山の専門家に相当する存在がなく、地元の人の山道の知識による優勢を脅かす者はなかったと言えよう。

 

研究の専門家とは、この話における登山専門家にあたる。

 

研究者は一般的に専門家であると考えられているが、それは通例、ある知識分野の専門家なのであって、研究においては素人と言ったほうが近い場合が多いのである。

 

そうした研究従事者のあり方は研究の進展よりも停滞に積極的に荷担しているといって決して過言ではないはずである。

2.専門手段への依存

専門をかかげ、それによって生きていこうとする人達に発生しがちな傾向がある。

 

そのひとつは、何かにつけて自分の専門を通じての達成や解決をはかることである。

 

人事・給与専門のコンサルタントは、どの会社を見ても「御社は給与システムに問題があります。」と診断しやすいことは容易に想像できる。

 

皮膚科の医者が塗り薬で治療するデキモノでも、外科の医者はたちまちメスをもって向かう実例を体験したことがある。

 

ある企画会社のコンセプトワーカーで、受注した建築やイベントなどの新しい企画の案を披露に際して、あっちの仕事でもこっちの仕事でも決まったように「今回は”水”をテーマにしてみました。」と打ちだすのを目撃したことがある。

 

それぞれの企画依頼への答えとしての「水」というテーマの必然性は甚だ疑問に思えるわけであるが、彼は「水をテーマにした提案」の専門になりかかっているために、最適性はともかくとして「水」を登場させることになるわけである。

 

知識の専門家に研究テーマの設定を任せたときにも同様の問題が発生するのは半ば避けられないであろう。

 

自分の与し易い領域の枠の中でしかテーマを考えようとしない傾向もしくは限界が予想される。

 

一方、産業における研究は、その企業にとっての最適研究テーマを見極め、それにもとづいて研究活動が展開されなければならない。

 

自分の専門領域に座して手の届く範囲にのみテーマを求めようとする研究員の手に、その最適テーマが掴まれることを期待するのが無理である。

 

かくて、企業を救うかもしれない唯一無二の最適テーマは、誰にも発見されることなく永遠に放置されるのである。

 

これは難点というよりも災害と呼ばれるべきかもしれない研究の障害である。

3.専門外は関係外

問題はさらに根深いものをはらんでいる。

 

仮に幸いにも何らかの方法で、その企業にとっての最適研究テーマが究明されたとしよう。

 

最適テーマの存在が、特定の知識の専門分野にぴったり合っているということはまず期待できない。

 

 むしろ多岐にわたり、方々にまたがり、あるいは誰の専門でもない部分を含むことを妨げることはできない。

 

専門を誇る研究員ほど、専門外の課題には拒絶感が強く、また堂々と拒絶する傾向があるように思われる。

 

専門外のことは関係外であってくれることを願う心情である。

 

これにより、せっかくの最適研究テーマも専門外という宣言の下に拒絶されたり、専門に合うように歪められ、専門の手の届かない部分は随所が空白となり、いつまでも完成に至らないこととなる。

 

現実に、このような状態がほとんどの企業の研究所で野放しになっていることに注目しなければならない。

 

このように、従来の研究の現場は幾重にも研究が進まない障害をかかえている。

4.図面なき工事の様相

われわれの研究成果のひとつとしてトータル・プロセス・デザインという手法がある。

 

 その基礎となる知見には、一般にものごとを成し遂げる過程の構造、すなわち設けるべき局面の内容と順序に関する原則がある。

 

その原則によれば、ひとつの全体過程は次のような性質の異なる五段階を一定の順序で進めることが要請される。

 

それは「指針設定」→「状況把握」→「適解探究」→「要目充足」→「成果形成」のように表現される。

 

研究にあてはめてみる、まず、研究活動自体のプロセス、また部分プロセスがこれら五段階を順序正しくまたバランスよく追っているかが問われる。

 

さらに、主なプロセスとしての研究活動を「成果形成」の過程と位置づけたときの四つの先行過程が充実しているかどうかが問われる。

 

このようにしてその活動主体もしくは組織の究極目的、理念に最終的な根拠を置き、そこを原点として上記の過程構造が整った形で展開されているかどうかを診断する。

 

 このような診断により、いわゆる業界の専門ノウハウの類に対しても、大抵の場合、うなづくべき改善点が発見される。

 

比較的単純に応用するだけでも、革新的進歩をもたらすこともあるほどである。

 

 建築プロデューサー、システムプロデューサー、などの新しい職種がこうした診断をもとに誕生した実績がある。

 

この原則に照らしてみると、従来の研究の世界の実態は、他の一般的な業界と同様かそれ以上に未開段階の状態である。

 

研究実施に先立つべき四過程は「研究指針設定」「研究要件分析」「研究方法開発」「研究態勢充備」となるが、これらがほとんどまともに行われずに模索的に研究現場が動いている。

 

建築工事にたとえれば、先行四過程は、施主が発意してから図面が完成するまでのプロセスに相当する。

 

つまり、トータル・プロセス・デザインの観点からみると、研究の一般的現状は、設計図ができていないのに工事が始められ、職人が思い思いに好きな工作をしているようなものと言える。

 

そのような実態では、世間の平均像が決して評価としても”可”なのではなく、研究の進め方はまだまだ効率の悪い状態にとどまっていると考えられるのである。

5.事業設計不在

企業における研究は、当然ながら企業活動の一部であり、本来その全体を貫く指針に添ったものでなくてはならない。

 

ところが、従来の実状においては多くの場合、研究活動だけはその指針を離れて浮遊している。

 

つまり、凧の糸の端を握る者がいないに等しい状況に置かれている。

 

目標の明確な開発の場面とは異なり、ただでさえ研究の現場は自由にまぎれてわがままに漂いやすい。

 

せめて大枠としての方向性、必要性の共通理解が望まれる。

 

ただこの場合、共有化されている方向性が存在しさえすればそれでよいとはいえない。

 

まず、しっかりした企業理念にもとを発する大局を踏まえた事業の設計と、そこから必然性をもって出てくる長期的な特長づくりのビジョンといったものがなくてはならない。

 

その上で全社的なレベルでの責任ある経営判断にもとづく研究部門への要請が研究活動の根拠となるべきだということである。

 

ところが実状は、かねて指摘するように、そもそも生きた企業理念の条件を備えた指針を持ち得ている企業は極めて少ない。

 

したがって事業計画があるとしても十分な指針とはなりにくく、研究部門に有効な指針を与えることも困難になっている。

 

これは経営者にも責任のある部分である。

 

それゆえに、大局的な意味で的が絞られず、結果として本来の的の中心から見ればアサッテの方向を向いて堀り進んでいる可能性が高いのである。

 

かりに幾ばくかの成果が上がったように見えたとしても、同じ努力が的を得て別のところに注がれたとすれば、長期的には比較にならないほどの貢献を果たすことができたかも知れないのである。

 

そのあたりのことを無頓着、無対策な現状では、本来あるべき累積効果が少しも達成されておらず、沈滞状態にあると考えるのが妥当な評価であろう。

6.勉強と研究の適性相違

特定分野の知識の専門と研究の専門との内容の違いがある以上、適合人材にも違いがあって当然である。

 

 従来、どのような人材が研究職に就いているかというと、一言で言えば勉強のよくできた人間である。

 

大学は学問をする場所であって勉強の延長の意識ではいけないとの訓辞を、入学式にあたって述べる学長がいたことがある。

 

勉強は与えられた教材や指導を消化吸収することが主な眼目であり、いわば受け身のものであるが、学問は自ら探究心を持ち、師を求め知識を求めて学ぶものであるというわけである。

 

したがって、厳密に言えば学問の適格者を勉強の成績で決めることにも問題がないわけではない。

 

さらに、研究となれば教科書もないければ先生もいない、知の先端を切り開く営みであり、創造性をはじめ要求される能力はさらに違う。

 

勉強型の人物が、いきおい狭い専門分野の学者になりがちなことは、これまでわかっている産業研究の性格、すなわち目的中心型で領域不問の柔軟さを必要とすることからも、適性に反している。

 

ともあれ、大学においても学生のやっていることはほとんど勉強の域をでておらず、大学院への進学者までも、結局は勉強の能力順で決定しているのが伝統的な実態であろう。

 

これは、例えていうならば水泳の強化選手を選ぶのに、走れもしないような者は泳ぎもろくにはできまいといって陸上の成績で決めているのと同様か、それよりもっと乱暴なことかもしれない。

 

実際に、研究開発型の企業として知られている愛知県のM社では、中卒から大卒までが同じ開発現場で混じり合って仕事をしており、能力は同じ問題への予見の的中率や成功貢献度に露骨に現れるが、その結果、学歴が高い方が頭が固く実績が低い傾向があることは社内の定説になっているとのことである。

 

真に研究者に適した人材が見極められることなく、勉強の場で特化された、いわば別種の、ひょっとすると反比例的な関係すら懸念される能力を尺度に研究人材が選抜されてきた現状は、あきらかに本来あがるべき研究成果も出ないようになる条件を延々とつくりだしているわけである。

7.大学的研究姿勢の移入

いくつかの研究所を持つある企業の社長が、各研究所を回ってみたところ、誰一人として会社の研究をしているものはなく、みんな勝手に自分の研究をしていたという。

 

 びっくりして全ての研究部門を集めて社長室と同じ一つの建物に置くことにしたのであった。

 

価値的な根拠があまり問われず、関心、好奇心、興味にまかせて研究することが比較的自由なのが大学である。

 

そのような研究テーマでも、自分で設定できる学生はよほどマシな方で、多くの場合は自力での研究テーマ設定は困難であるのが、とくに日本では実態といえるであろう。

 

大学を経て企業の研究部門に入った人材は、ともすればこの大学時代の環境をより高級で本格的な好ましいものと考えがちである。

 

つまり、直接的な価値や成果を問われず、いつまでも自由にまかせてもらいたいのである。

 

自由で楽であることのほかにも、内心大学に残りたかった人が多いことも手伝って、そういう空気は蔓延しやすい。

 

このようなことも研究の生産性向上を妨げる無視できない一因をなしている。

 

研究工学にもとづく次世代型の研究活動が盛んになれば、大学における研究活動の実態が、テーマの自由性を割り引いても決して洗練度の高いものではなかったことがあからさまになるであろう。

8.学歴偏向者の寄生虫気質

研究従事者のほとんどを高学歴者が占めていることは周知の通りである。

 

 その中には、学歴に執着し、そして獲得したという人物も少なからず含まれているであろう。

 

そのような、偏向にも近い学歴指向は日本社会全体に長らく蔓延してきた。

 

 我々の研究によって、学歴偏向をもつ人は、(結果として高学歴になったか否かは別として)同時に寄生願望、依存性を併せ持つ傾向が強いことがわかってきている。

 

それは、社会や所属する組織の中で「楽をして体裁よく甘い汁」を行動原則とする傾向でもある。

 

その顕著な例として、学歴争奪の勝利者である高級官僚の、少なくとも一部の人たちの各種の寄生虫的行動を見れば納得のいくところであろう。

 

職場では、いかにして給料に相当するほと働かないで済ませるか、もしくは働きの割に甘い汁を吸うかに関心を持つタイプである。

 

従来型の研究態勢でもかろうじて成果があがる場合というのは、大抵が損得を越え情熱を燃やして取り組む優秀な研究員に恵まれたようなケースのようである。

 

ところが、学歴偏向の路線を来た寄生虫的性向の人物が、研究陣に多く含まれやすいことは、研究の場が怠慢の巣になりやすいことを物語っていると言えよう。

 

散見する事態はまさにその通りの場合が多いようなのである。

 

先程の例のように、目が届かなければ会社の時間と経費を使って、自分の研究をするという神経も、そのことの現れの一面という見方もできよう。

 

このような有り様からも、研究が本来の効率で進められているとは考えがたいのである。

9.傑材依存

今日までの研究のあり方は、ごく一握りの非常に優秀な頭脳の持ち主に大きく頼っていると言えるであろう。

 

 ほとんどの研究者は、他人の独創的な研究の隙間を埋めるような仕事をしているのが実状である。

 

そのことも、人材的な面から研究のヒット率と経済性を極めて低いものにしている。

 

一般には、それが当然であり今後も同様の状態が続くと思われているかも知れない。

 

しかし、果たしてこの状態を脱することができないと断じて良いのであろうか。

 

従来の実態は戦争でいえば豪傑戦法の段階を彷彿とさせるが、それが目的に対して効率の良くない態勢であることは戦場で立証されてきた。

 

セールスマンの世界が、つい先頃まで同様の豪傑戦法的状態にあった。

 

五人の営業マンがいるとすると、一人のベテランが80個を販売し、残りの4人が5個ずつ合わせて20個を売るといったあんばいである。

 

われわれの研究により、普通の人材を短期間に養成して、20個売るセールスマンを5人揃えることを可能にするラチェットセールス法が開発され、役に立っている。

 

同様の合理化と平準化を研究の世界でもなしうる可能性は十分考えられる。

 

そのための具体的な提案が研究工学でありリサーチプロデューサーという仕事である。

 

いずれは、従来の豪傑戦法状態の放置が、効率の良くない態勢に甘んじる怠慢であったと認識されるときがくるであろう。