もっともな間違い 2005.9/29

「尤も(もっとも)」であることと「間違い」であることとは、ときに同居することがあります。

そう思うのは当然だが誤解であるというような場合です。

そのような現象は、前提となる情報や認識が、何かの拍子に狂いを含んだものになった場合に起こります。

そんなとき当の本人は、考える筋道が正しいのだから結論的判断も正しいと主張したいことだろうと思います。

とくに、その誤差情報がヒントになって、在来の状況に対する新たな「読み」が成立してしまったときは厄介です。

仮にその誤差情報が無かったものとしても、彼の「読み」は過去の情報だけで成立するわけですから、とても覆りにくい頑強なものになりがちです。

織田信長はよく、敵方の幹部が織田方に内通していることを示す内容の偽の手紙をわざと落として敵方の手に入るようにするという「技」を使いました。

敵方のトップはそれを読んで、

「そういえば、あのときも、またあのときも、考えてみればおかしかった。

これですべて謎が解けた。

この手紙が見つからなかったとしても早く気がつくべきだったのだ!

裏切り者がまだばれていると気付かない内に呼びだして早く討ち取らねば大変だ。」

とばかり、大事な片腕を自ら切り落とすようなことをするわけです。

「ははあん、それで読めた」と膝を叩いたようなとき、実は誤解であっても本人には貴重な「気付き」であり、捨てがたいものになる傾向があることは理解しておくのが良いでしょう。

冤罪の発生にもこういうことが絡むことは多いのではないでしょうか。


(旧メッセージナウ2005年10月9日記事より)