広辞苑で研究の意味を見ると「よく調べ考えて真理を見極めること」とあります。
もう少し切り込んだ形で一応の定義をすると、「体系的・累積的な情報加工を通して新知識を生み出す活動」と考えれば、およその場合に有効です。
研究という言葉のもつイメージに含まれがちな点で、取り除いていきたい2,3の先入観があります。
それは、研究はすぐには役に立たないという印象、研究は高度な専門知識を持った特別な人がするものだという印象、研究をする人は理論理屈の表面的合理性の世界に陥りやすいという印象などです。
本当は、役立つことを期待できるのが研究であり、身近な、誰にでも関係できるものであります。
また、研究の世界で優れた人こそ、人知を超えた深遠な世界を数多く体験しています。
勉強・学問・研究という類似の言葉がありますが、受動的に教材を与えられて習得しようとする段階を勉強、自発的に探究心を持ち、師を求めて学ぶ段階を学問、先達や教科書のない領域で先端の知を発掘する段階を研究というように大雑把に区分してみると、研究を大げさにとらえ過ぎたり、逆にあなどり過ぎたりもしないで理解する上で助けになるかもしれません。
つまり、研究というからには、未知・未踏・独自の先端を築いているべきで、いくら難しいものでも他人の書いたものを読んで知識を仕入れ、蓄えただけのものや、ただ人より先に遭遇して発見しただけのケースは、研究とは言いません。
しかし、一見ありふれたようでも固有の仕事の現場で、独自の体験と認識を集積して使える知識を増やしている人は、研究の名に値する活動をしていることになります。
なんの役に立つのかを問うことは真の研究を不自由にするという主張の人もいるでしょうが、一般の理解に媚びるという意味ではなく、真底の部分に理念のない、研究の名を借りた知的遊戯と言えるようなものは、もしやりたければ自分個人の小遣いと時間ですべきでしょう。
目的意識なしになされたとおぼしき研究が後世価値を発揮したように見える場合があるとしても、社会の役に立つ姿勢の微塵もない研究者が現実に行っている無駄は弁護されるとは思いません。
確かな害は、そうした研究者が研究の「役立たず・カネ食い虫」というイメージを助長することです。
明確な目的が存在し、それを堅持推進すると、特定の専門領域にこだわれなくなることはいくらでも発生します。
逆に、ある専門領域内だけで用を足して研究を続けようとすると、特定の目的に対する適合性を維持することは困難になります。
つまり、目的の設定を嫌う研究態度とは、狭い専門に閉じこもっていたい傾向とも相通ずるのです。
しかし、少なくとも産業界における研究は、目的型のものでなければ効果的に進められないことは明らかになってきており、これからは役立つ研究の比率が大いに増加するでありましょう。
仕事の現場、あるいは実生活の場と研究の場は最もかけ離れたものと思い込んでいる人が多いかと思います。
しかし、実際は、具体的な活動がなされる場は、個々が固有の特色と事情を持ち、教科書にない問題に直面しています。
これは、まさに研究心が養成される場面なのです。
かつて江戸時代の日本は職人王国と言われるほど、職人の磨いた腕が光っていました。
心血を注いで工夫に工夫を重ね、冴えた技を生みだした彼らの営みは、研究そのものであったと思います。
私達の身の回りは、実は研究の種で溢れているのではないでしょうか。
現場は研究課題の宝庫です。
近年、私自身も関与している研究者のネットワークづくりに関して、独創的研究にいそしむ研究者との巡り合いが生まれています。
その中には、すばらしい研究をまるで機関銃のように連発している何人かの研究者がいます。
彼らの共通点の一つに、研究動機が人類愛的であること、そして超確率的なひらめきの世界を体験していることが挙げられます。
「そのアイデアをどうして思いついたのですか?」と聞かれても答えられないのだそうです。
純粋な志の発露としての研究には、尋常以上の能力が顕在化し、天啓のごときひらめきが起こりやすいようです。
研究といえば科学、科学といえば科学信仰的偏狭、物質主義的鈍感と結びつく印象も一部にはあるかもしれませんが、研究の世界においても優れた人材は幅のある人格をうかがわせます。
日本で独創的研究が育ちにくいということは、その方面に関心のある大方の人が指摘するところです。
整理してみると、およそ四段階の、独創的研究を阻む壁があるようです。
第一の壁は、画一教育という言葉にも現れているように、個性豊かな人材が育ちにくい土壌があると言えるでありましょう。
あえて人と同じでないことをすると、そのことにからめて何かと罪悪扱いにする共通の傾向があります。
第二には、その教育環境を乗り越えて、独創的で優秀な素質の人材が育ったとしても、彼らに存分の活動をさせるどころか、異端者扱いで封じ込めて、本来の能力を開花させない壁があります。
それを嫌って、条件に恵まれた人は海外に移って活動します。
いわゆる頭脳流出です。
そして、ノーベル賞でも貰うまで、日本では忘れ去られます。
第三の壁は、たとえ国内に踏みとどまってくれたとしても、独創的研究が冷遇されることです。
「どこにもない研究」には予算がつかず、「アメリカで行われている研究」であるというと予算がおりるといった有様は、わざわざ独創的な研究をふるい落として、二番煎じの研究を選んで残しているようなものです。
そのせいもあるのでしょう。
独創的研究に取り組んでいる研究者の多くは、あまり資金的に支援に恵まれず、私費・私財をもって活動しています。
第四は、すべての困難を乗り越えて独創的研究を成し遂げ、貴重な成果を得た場合でさえ、これを認めないという壁です。
そんな壁はないと信じたいところですが、最近ようやく国内でも広く名前を知られるようになった発明王中松義郎博士が、フロッピーディスクを発明したとき、国内のメーカーがどこも相手にしなかったために、IBMに持ち込む事となったのですが、IBMでは異例中の異例で、個人との間で特許に関する契約を結んだ(それほど、明らかに重要なものであった)という典型的な事例があります。
常識を覆すような研究成果の場合には、認めるどころか、反感に満ちた嫌がらせに見舞われるといった場合もあるといいます。
はる研究院
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