「信者」の憂鬱 2005.10/9

ものごと全般において、借り物の判断に依存して足れりとする人を指して「信者」という言葉を用いるときがあります。


その傾向は、怪説盲従、占卜趣味などに現れますが、要は人の判断を写し取ってて済ませる指向が強く、全面的に信じてすがれる人(先生、指導者)を求めて遍歴します。


たとえば○○手法といったものがあるとき、その成功事例を知ること等によって「善玉」のヒキダシに入れ、〈理解なき信頼〉を持つに至った人もその類です。


「信者」は何しろ「理解」していませんので、次のようなことが起こります。


 ・分極思考→全面肯定

 ・欠陥説明→誤解流布
 ・言語硬直→過剰対立

 ・誤用失敗→一転非難
 ・有名崇拝→無節転向

 ・判断依存→迷門参客

 

迷門(めいもん)は、判断力の弱い人を勧誘対象とする教唆団体で多くは集金的体質であり、客の取りあいよろしく「信者」の囲い込み合戦を演じたりします。


こんなことを書くと、「信者はいけないというのか」という気色ばんだ問い詰めに遭いそうですが、いけないのではなく「混塾社会」の現実認識の話です。


手法や技法、修業の道などが評価を得ると、一時的に玉石混交の幅広い人々の関心と接近の対象になります。

 

ただ、上のような特徴から「信者」はいずれその継続者の仲間から脱落して、少数の理解者が残ってゆきます。


しかし、 実践しない単なる理解者は、ある時期から、行状実績によって体面をなくしたり、自己の実態や覚悟の水準と実践者の水準の乖離に付いていけなくなって、やはり脱落状態となります。

 

脱落にあたって、イソップ物語の「すっぱいブドウ」のような言い草を残す例も多いようですが、それも人柄で、“やはり本物だった”というときにも戻りにくいことでしょう。

 

こんなときにも、〈出来ない自分〉を許せる人は、かえって長続きして、ウサギと亀の話のような逆転劇にもつながる可能性があります。


(旧メッセージナウ2005年10月16日記事より)