「信者」の憂鬱 (その2)2005.10/16

成長の過程では、青年期までは大方の人は、ものごとにおいて、自分の考えのつもりでも、どこかで写し取ったものの寄せ集めからなっている状態です。

 

したがって、この時期までの子供に、考える教育のつもりで「批判的見方」を教え、「批判的態度」を覚えさせることは、いたずらに不遜を植え付けることにもなりかねない面があります。

 

本当に自分の考えというものが形成されるのは、相当に成熟してからで、多くの 体験や省察を重ね、統合された個性のようなものが成立してからのことだと思われます。

 

人格と結びついた自分の考えができると、鐘の音が固有の響きを示すように、何について語っても、借り物ではなく個性に貫かれた固有の風合いを帯びてきます。

 

人様に読んでもらうために文章を書こうとしてみると、オリジナルな考えが一行もかけないといった状態になるのは、まだ創造的表現の足場となる思考の発酵桶が出来ていないことの現れであることが多いものです。

 

そんなときは、受け売りの考えを語るのではなく体験のみを語るに限ります。

 

 

(旧メッセージナウ2005年10月23日記事より)