「信者」の憂鬱 (その3)2005.10/19

信頼とか感謝は体験の結果として感じられるもので、「信じなさい」「感謝しなさい」と言われても、多少の影響はともかく、基本的には随意に増減することは困難です。

「○を信じるんだ!」のようなセリフは、一体人に何を期待しているのかと思ってしまいます。

「信者」は、一般に知見を理解の対象ではなく信じる対象として捉えており、他の人も皆そうなのだと思っているようです。

「和道」について理解していたKさんは、あるとき誰かに説明していて、その相手から「あなた自身は信じるんですか」と聞かれて一瞬キョトンとしたと話していました。

説明されているものに接する姿勢がまるで違っていたわけです。

やってみなければ分からないことに関しては、理解を目指す素直な人はすぐやってみようとしますが、「信者」は傍からそれを眺めて、「よくも信じられるものだ」と評したりします。

もし自分が同じようにするときは信じたときであり、信じられる材料が揃ってから信じようとしているわけで、行動検証している人も信じた人に見えるわけです。

行動することで体験と理解が進み、良いものだが自分には向かないなどの妥当な判断で、それ以上取り組まないという選択もあります。

それを見て裏切り者呼ばわりするのも「信者」です。 

「信者」は信じたものに関しては“欠点ゼロ”を見てきたかのように主張したりしますが、そういう調子はいずれ破綻するものでもあります。

「信じていたのに裏切られた私は、何を信じたら良いのか分からなくなった・・」といった愚痴は「信者」に特有のものです。


(旧メッセージナウ2005年10月24日記事より)