独立自由人 2005.12/5

このひと月、家に居た日は四日程でした。

出っ放しに近い状態で次々と予定の行動をしていく間、予定に書かれていない準備活動のようなことに投入する時間が非常に不足するという現象が起こります。


十一月二十九日には、ついに覆いきれないところにほころびが生じました。

空港に着いてみると、予約が出来ていないというのです。

機械の応答が変なので窓口に行って調べてもらうと、予約手続が完了していなかったので、受付はしたが自動的に解約となった経緯が残っていました。

帰りの便についても同様でした。


ひと月ほど前、ほとんど出来ていた予約手続が何かの事情で未完了のまま、二度と思い出さなかったのです。

旅から旅への合間に、インターネットでそういう手続をする場合、“まだ最後まで終わっていないから他の用事に移れない”などと言っておれない場合もあります。


今回は空席があったので当日購入で何とか移動はできましたが、今後に向けての対処を要する一幕でした。


ただこうした場合、いかにも生活にゆとりをもたらせば解決するかのように見えますが、志をもって行動している者は、さして守るべき意味のないゆとりなどは、すべて天の声と感じるさらなる行動に投じますので、ほぼ同じ状態になります。

したがって生活面はいつまでも安泰ではなく、不安定への安住という格好になります。


時代の志士を目指す人が、しっかりと生活を優先確保していたりしたら、まずニセモノに留まるであろうと思います。

かといって、易々と経済破綻して人に迷惑をかけるようなことでは、自立しているとは言えないでありましょう。


「志士は塀の上を歩く」というのは、そのように、過ぎたる安全の中にも、むやみな危険の中にも身を置くことなく、境目のようなところをいつも進む有り様を言ったものです。


生命や生活は、これを守るべきものとするか、ある目的のために使うべきものとするかによって人生の様相が全く変わります。

生命、人生を投入してでも果たしたい事柄があるということは、ハッキリ言って幸せなことです。


(旧メッセージナウ2005年12月13日記事より)