背徳化の法則 2005.12/13

理念がなく利益を追求する企業などの活動体は、合理化の名の下にまず明白な無駄を省くところから始まり、やがて普通は無駄とされない部分の中に実は省いたり代えても差し支えない要素を見いだしてこれを実行します。


そのようにして手を付ける領域は、理念なき利益追求の場合必ず“社会的、倫理的にはやらないことが望ましいが、利益のためには足しになる”部分へとさしかかります。

それもまず咎められないで済む合法的な部分から始まります。

たとえば食品などで混入物○%までは純度100%と表示してよいとなれば必ず○%ギリギリまで混入物を入れて純度100%と表示するなどの行為です。


合法的と言える範囲でも、脱法行為よりももっと悪質・有害な省略や代用は様々に考えられますから、そんな中で従事者の良心はだんだんマヒして行きます。


そして、ついには犯罪的な領域にさしかかるのですが、ここでも、まず立派な言い逃れが可能で身の安全に支障がないところから始まり、確実に隠蔽できて露見の心配がない部分に及んでいきます。


そんな中で、状況により、立場により危ない橋を渡るような部分が発生し、さらに習慣化・体質化し、やがては事故・事件に発展し実態が明るみに出て破綻や破滅へとつながります。


こうした図式は非常に一般的なものであり、問題になった業者だけのものではないと考えるべきでありましょう。


現状でごく真っ当な事業体のように見えても、中身は表面だけを残して白蟻の食った柱のように極限まで空洞化・偽物化・背徳化していく流れの中にある企業は多いと思われます。


「ビジネスはきれい事ではない」「商売は商売」などとつぶやきながら、危ない領域に足を踏み入れていく姿は、一面気の毒でもあり、また一面自業自得です。


そうした方向に進んできた体質の企業では、もはや理念的なあり方への回帰は業務続行困難を意味するため、理念に対して否定的な反応を示すのが当然なわけです。

「理念じゃメシは食えない」といった感覚は、彼の会社が実際にそうであることの反映なのだと考えると、理念に関する問い掛けは背徳化を調べるリトマス試験紙になりうるかもしれません。


こうした意味でも世の事業体は二極分化していく大勢にあると言えましょう。

その一方の道には前途がないことが、当事者には見えにくいようです。


(旧メッセージナウ2005年12月16日記事より)