覚者社会 2006.1/1

昔は「預言者(予言者ではない)」という人たちがいたようです。

つまり、“神”のメッセージを、直接聞くことの出来ない一般の人々に代わって聞き預かり、時に応じてそれを発表して伝え、全体に指針を与えるという役割の人です。


あるいは、それは民衆をまとめるための方便、演出であった場合が多々あったかも知れません。


こういう時代、もしくはこういう社会は、君主よりも神(天)が主役・主人公であり、神主主義あるいは天主主義の状態と表現することも出来ようかと思います。


<天主>という言葉は、ラテン語 Deus の漢訳といわれ、宗教用語としての意味もありますが、それはさておき、ここでは「民主社会」というときの「主」と同じ用法で、天が主であるさまを指すこととします。


その意味での「天主社会」は「天」を中心として運営される社会ということになります。

つまり天意(宇宙意志)を受けてそれを指針として行動する世の中です。

そこでは「天主」はもはや主義ではなく現実の環境もしくは法則と認識されるでしょう。


「覚者社会」はおそらく、この「天主社会」の様相を呈するのではないかと考えられます。

昔の預言者による天主時代との違いは、かなり多くの人(覚者)が直接的に天命・天意を感じ取ることができるので、代わりに聞いてくれる人すなわち預言者を立てる社会的必要が薄いことです。

また信者層を相手にニセ覚者が真似をしようとしても、もはや商売にはなりにくいでしょうし、本物でないことがばれて通用しないと思われます。

あちこちにいる覚者が一斉に同内容の「時の指針」を告げるのに、ニセの覚者はリアルタイムに合わせることができないからです。


情報社会後半には情報生産技術が盛んになり、高度自覚人材が層をなすようになるであろうことは、現在でもISTの周辺を見れば推測できます。

「考業」の時代が覚者社会到来への前準備の一つとなると予想されます。

従来の一般化した表現で情報革命から意識革命へと言われているのは、大体そのことです。

私は考業革命から修業革命へと言っています。


「修業社会=覚者社会=天主社会」という関係認識と将来展望は、イザというときに乗る船を間違えないためには少しは役立つかも知れません。


(旧メッセージナウ2006年1月5日記事より)