風評と理念 2006.1/21

ある噂が出たとき、はじめは「本当にそうかな?」と話題にする。

そのうち、いろいろな人が口を揃えて同じこと言っていると聞いて「そうらしいよ」と言い始める。

追って事実を見たかのような具体的な片鱗エピソードが流れる。

人々は「間違いない」と信じ、それを前提にものを見るようになる。

その見方と組み合わさったとき特定の効果が現れるような別の片鱗情報が流れる。

そんな現象は幾度となく社会、あるいは世間で繰り返されてきていることと思います。


ある場合の真相は、その噂や持論の元の発信者は一人で、出所が一つだからこそ同調者が口を揃えて似たような言葉や発想で語っていたのだった、というようなことがあります。


人々は、どこか心待ちにしていた内容の噂にいちはやく反応し、一種の情熱を添えて次へと伝達します。

それがある個人に関するものであるとき、いわゆる毀誉褒貶(きよほうへん)に類するものとなります。

世の中には自分に関する評判の管理と操作に熱心な人がいるものですが、その人が長年にわたって世間に作ってきた印象には抗しがたいものがあります。

その意味でも「徳を積む」ということはとても身を助けることがあるということです。


しかし、人格形成のある段階では、必ず毀誉褒貶そのものを超越する、すなわち目先の評判にとらわれないで行動できる成熟性を獲得しなければなりません。

「こんなことを言われていますよ」
「なに、それは大変だ」

と一々反応するようではまだまだですが、弱い人間、自分にとって好ましくない風評には、なかなか穏やかではいられないのです。

とくに実害が発生するような場合はそうです。


長い目で見たときの毀誉褒貶のはかなさを知ることも大事ですが、世間の反応に動揺しない心の安定を守り、行動の一貫性を支えてくれる何よりのものが使命の自覚であり理念の確立です。

時代の志士たらんとする人は、まず少なくとも、そのあたりのことに対する強さを備えて臨む必要があります。


(旧メッセージナウ2006年1月29日記事より)