信者のうぬぼれ 2006.1/29

「信者」の行動の根底には奇妙にも

「自分は最高位の審判者である。
(その自分が信じ選んだものであるからこれは正しい)」

という意識があり、それが故に信者は求尊心の傷つくことなく判断依存を続けることができるという構造があるようです。


私も若いころ人生の根本指針を追究しようとするにあたり、ついつい、歴史的聖賢を比較の対象とし、それらの上に(立てるはずもないのに)立って評価し、裁定し、選ぼうとしている尊大な自分を感じ、

「これって、おかしくないか?
(一介の凡人、しかも若造が、それができるほどの存在か)」

と気付き始めたことを思い出します。


つまり信者は一見、信ずるものを崇め奉っているようで、心底では多分に自分の方をさらに上に置いて選んで来ており、とんでもないうぬぼれ、増長と共にあることが多いのです。


それは、イザとなったら手のひらを返したように酷評して離れていく可能性でもあります。


「今の自分がまさにそうだ」と思ったとしたら、どのようにしてその強固な構図から逃れることができるのでしょうか。
(設問1) 


このことは、裏を返せば、自分が偉いと思っている人ほど、実は理解の及ばないものを平気で評価比較して、小さな頭で良いと思ったものを信じて依存するパターンに入りやすいということです。

そのパターンに誘い込むには、自分は偉いのだ、尊重されるべき者だと思わせることが下地づくりになります。 


信者取り込みの洗脳の初期段階で用いられるのアプローチの一つに、徹底的な持ち上げ、おだてがあります。

自分は偉いのに人が認めてくれないと思っていて不満な人、誰からも認めて貰えずに惨めな思いで来た人、つまり「求尊性ストレス」の人に限って、ここで喜び安堵し、求道・模索の旅を終えて傘の下に入ることにしよう(信じよう)としがちになります。


往年、洗脳的手法と言えば思想・宗教系団体の特技のように見られていましたが、近年ではカウンセリング、コーチングの領域に入り込んできていると聞きます。


「思想のワクチン(思考の基本)」の研修を改めて思い出すような話ですが、この思考の基本研修の内容は実際は基本的教養そのものといったところであり、特別の薬品・抗生物質のような作用を特色とするものでないことは、経験された方はご存知です。

しかしそれが事後ではなく事前に投与されていれば、おかしな思想信条に染め付けられることへの予防効果が発揮されます。

今年の予定では十二月と随分先になりますが、お勧めしたい学習の一つです。


(旧メッセージナウ2006年2月1日記事より)