将棋指しと駒 2006.2/10

信者指向の人がどの聖賢・指導者を信じるかを選ぼうとするとき、つい信奉対象の候補よりも自分を上に置いて裁いてしまう構図をどのように脱するかという問題(前々回の設問1)に対する一つの答とも思われるのが、将棋指しと駒の関係になぞらえた状況の捉え方です。


これは一つのパラダイム(基本的な認識の枠組み)をなしているとも考えることができましょう。


人は信奉対象を選ぶ前に、すでに人類の超主体的存在によって、あたかも将棋指しがどの駒をどこでどう使うかを決めるように、選ばれたり除けられたりしていると見ても、不具合はないばかりか、日頃の体験や現象をより適切に説明できそうです。


たとえば、志が高く、打算や求尊、執癖よりも天命、宇宙意志、超主体の計らいを素直に受け、それに忠実に生きている人には、難儀や危機以上に天佑がはたらき、不思議な、文字通り有り難いようなことが身の回りに頻繁に起こる「超確率現象」といったものを、無視したり無理に否定しないでよく了解できるようになります。


超主体の意識と我々個々人の意識は、個人の意識と人体の各細胞の意識との関係にたとえるほどかけ離れていると思われます。

何かそのようなもの(超主体)がはたらいているというのは、まさに想像にすぎませんが、一般的には想像の及ばないことを承知で及ばずながら想像する程度のことしかできない、我々人間とはそういう存在であろうという認識がこのパラダイムにはあります。

まして、査定したり判定したりできる立場ではないだろうということです。


有用で忠実な駒ほど、荷が重く危険も伴う役目に当てられますが、半面では大事にされ、ギリギリのところでは失われないようにサッと守られ、よほどの大きな価値と引き換えでなくては犠牲にされません。


一方で、一身の安全や利益に拘泥して役目を曲げたり逃げたりする駒は、見放されたような、もしくはその他大勢として後回し的に遇され、却って身を守ることに失敗するという関係になります。


そうしたことは、私自身も体験を積むほどに実感を強めてきています。

人間がわずかでも物事の認識を深めていくのには、このように無自覚の自覚、無知の知の中でゼロから始まり、触れては味わうことを重ねながら徐々に近付いていくという過程を進むしか方法がない、またそれこそが適切であるような認識対象というものがあり、そこでは一見頼りなく感じられるこうした認識の進め方もまた立派な方法なのです。


天(神、宇宙…)を定義しないと天(神、宇宙…)について何一つ考えられない演繹と帰納だけの文化が、いかに不備千万で気の毒なものか、発想と感得を加えた認識形成の世界がいかに貴重なものかがこうしたきっかけからも見えてきます。


(旧メッセージナウ2006年2月20日記事より)