とくに役に立つのは講演の後などに質問を受けるようなときです。
厄介な質問は大抵が二者択一の枠組みと共に出されるものです。
そして、どちらを答えても難点があることを十分知っていて(でも必ずどちらかしかないと思っている)、だからこそ興味をもって質問していることが多いのです。
したがって、ほとんどの場合、正しい答え方は「どちらでもない」の領域にあります。
たとえば、
「もっと決定的な別の要因次第で採るべきものは変わる」
「いま考慮されていないある前提を満たさなければ、どちらの選択も誤りとなる」
「ここでは第三の全く別の選択肢に最も可能性がある。それは…」
「恐らくそのどちらでもないと思うが、それを明らかにするためには研究が必要だろう(私はやらないが)」
等々、限りなく多様にあります。
ハムレットは
「生きるべきか、死すべきか、それが問題だ」
と悩みますが、
「生きるべきか、死すべきか、それとも(今考えている生き方、死に方どちらでもない)第三の選択をすべきか、…」
と考えたら別の道が開けたかも知れません。
昨年台湾を訪問した折りに、よく当たるおみくじ(相談付き)の名所というところに案内してもらいました。
これは折角だからやってみようと思いましたが、おみくじで尋ねたいことがどうにも浮かばないので、とうとう諦めました。
そういえばものごとに迷うことがほとんどなくなっているということに改めて気付きました。
理念(天命自覚体験)と問題解決学のおかげが大きいと思いますが、「意思決定器」を使っていた若いときと随分変わってきたことを感じたひとときでした。
(おわり)
(旧メッセージナウ2006年4月11日記事より)
厄介な質問は大抵が二者択一の枠組みと共に出されるものです。
そして、どちらを答えても難点があることを十分知っていて(でも必ずどちらかしかないと思っている)、だからこそ興味をもって質問していることが多いのです。
したがって、ほとんどの場合、正しい答え方は「どちらでもない」の領域にあります。
たとえば、
「もっと決定的な別の要因次第で採るべきものは変わる」
「いま考慮されていないある前提を満たさなければ、どちらの選択も誤りとなる」
「ここでは第三の全く別の選択肢に最も可能性がある。それは…」
「恐らくそのどちらでもないと思うが、それを明らかにするためには研究が必要だろう(私はやらないが)」
等々、限りなく多様にあります。
ハムレットは
「生きるべきか、死すべきか、それが問題だ」
と悩みますが、
「生きるべきか、死すべきか、それとも(今考えている生き方、死に方どちらでもない)第三の選択をすべきか、…」
と考えたら別の道が開けたかも知れません。
昨年台湾を訪問した折りに、よく当たるおみくじ(相談付き)の名所というところに案内してもらいました。
これは折角だからやってみようと思いましたが、おみくじで尋ねたいことがどうにも浮かばないので、とうとう諦めました。
そういえばものごとに迷うことがほとんどなくなっているということに改めて気付きました。
理念(天命自覚体験)と問題解決学のおかげが大きいと思いますが、「意思決定器」を使っていた若いときと随分変わってきたことを感じたひとときでした。
(おわり)
(旧メッセージナウ2006年4月11日記事より)