帯命現象 2006.4/11

われわれ個々人は言うまでもなく一つずつの命を授かっています。

われわれの細胞は、あたかもかつて単細胞生物であった段階の名残のごとく、ある程度の生命体らしき構造と機能を有しています。

人体と切り離して個々バラバラにした細胞は栄養液の中で生き続けていくことができるようです。


個人の命に対して細胞の命を「下位生命」と呼ぶことにします。

細胞の命に対しては個人の命は「上位生命」となります。


細胞の上位生命としての個人は、各細胞の意志とは別個にして別段階の独立的な意志を持っていると考えられます。


ここで、個人レベルの生命に対する上位生命というものを仮説的に想定してみると、いわゆる宇宙意志の主である超越的存在が思い浮かびますが、それより身近なレベルの集団ではどうでしょうか。


ワークショップに参加している一団の人々は、あるときから全体が一つの生き物のように統一的に動き出すことがあるようです。


私自身の記憶の中では、高校の時、学園祭に向けて準備を進める生徒たちの間に、かなり強い一体感と以心伝心の自発的補完行為、無償の利他的行為が群発した現象が思い浮かびます。

今にして思えば集団が命を帯びたという表現があてはまるような現象ではなかったかと思われます。

その中にいる自分は、個人の意志というより集団が持つ上位生命の意志に突き動かされていたと考えると妙に納得がいくものがあります。


ひるがえって、「いのち」の概念を少々拡大することによって、これまで目に入らなかった「集団のいのち」に着目し、認識し、さらには生みだし、育て、それを活用して新しい可能性を開くことができるかも知れないと考えてみることができます。


古来の村祭りなどは、村という共同体の生命を定期的に保守する仕掛けであったと見ることもできるのではないでしょうか。


ハチやアリは、社会生活をする動物と表現されていますが、個体レベルの生命に対する上位生命が群に宿っている具体例であるかも知れません。

彼らは個体が別々に行動はしますが、立場は細胞のようなもので、一個体では生活できません。


考えてみればそれは人間も似たり寄ったりです。

そうなるといよいよ人間も、おそらく社会システム単位での上位生命の影響下にある可能性が濃厚になってきます。

「良心」といわれるものは「上位生命の声」なのだというふうに解すると、さらに生々しい存在となります。


日本人は「個」が未確立であるという指摘や、その現れとされる傾向があるとしても、それは余りに西欧中心の考えで、実は日本人の上位生命感覚が高いことによって見られる現象だと言える可能性も視野に入ってきます。


有名なガイア仮説の記述に生命という言葉を使うことに、これまでどこか抵抗を感じてきましたが、いのちの概念を明確に置き直すのであれば、そうした事柄の収まりも良くなります。


ともあれ、特定の集団にいのちを醸し出す「醸命」の技術、集団がいのちを帯びる「帯命」の現象を概念化することで見えてくるものは、なかなか興味深い部分があります。


(旧メッセージナウ2006年5月5日記事より)