失敗への感謝 2006.7/3

私は若いころ、何か工夫努力してうまくいくと

「自分は素晴らしい(人との比較ではなく)」

と考え、逆にドジを踏んだときは

「人間って馬鹿だなあ(自分はその中の一人)」

と都合よく考えることが多く、果たしてその功罪はどうなのか自分でも少し疑問に思っていた時期があります。

結果としては、自分自身を嫌いになることを免れやすい点で、良いストロークだったようだとの認識に落ち着いています。


いつのころからか、自分が失敗すると「しまった」と思うと同時に「面白い」とも感じるようになっていることに気付いています。

上記の認識の延長で、私の失敗は人間の失敗の一端という性質もあることを考えるからです。

まして、そこそこの経験を積んだ年齢になってなおかつ失敗するということは、研究に値する人間の「心の死角」が絡んでいて、それを捉えるきっかけかも知れないと、詳しく跡をたどったり分析したりします。


するとそれは、個人としての反省と改善にもなり役に立ちます。

さらに副産物として、人々と共有化できる知恵が見付かることもあるわけです。


外因性の災禍の場合も、それに出合ってしまった自分の失敗の一種と考えて同様に考察すると、仮に避けられないとしても傷を深くしないための備えがあることがわかったりします。


さらに「困った状態、怪しい状態」も、まだ失敗ではないが似たような状況として反省の対象となり、今後のための教訓や知恵が収穫できます。


考えてみると失敗が確実に勉強と結びつき、収穫がそれに続くのであれば、始めの姿は失敗でも後ろ姿は収穫となります。

この経験を繰り返すことで、失敗は同時に収穫を予感させるようにもなります。

「面白い」という感覚の中身は感謝の予感にも近いものです。


そこで失われたものがいかに重大であろうとも、いや重大であればなおさら、収穫も貴重なものにすべく省察を深めていかなければなりません。


すでに失ったものが諦めきれず、残念で反省どころではなく、誰かを恨むような依存人格的反応もありがちですが、たとえば将棋で取られた駒がどんなに大切であっても、それがもう無いのだということを受け入れることが出来なければ、これからに向けての的確な手を打つことはできないのと同様の構図があります。


こうしたことは、失敗や災難に遭ってしまった人には言いにくく、ましてその原因に自分が関わっていたりするときは禁句になってしまいますので、何もない普段の時にこそ話題にする必要があります。


(旧メッセージナウ2006年7月13日記事より)