一擦十万、一零五万 2006.7/13

先日、中古で買って十数年乗ったヨレヨレの車を別の中古車に買い替えましたが、前の持ち主は売る予定で使っていたらしく、傷みが見つからないくらいきれいな車でした。

それから間もない時に、家内が門柱で擦ってしまい、修理代が約十万円かかりました。
 

数日前は、床に落とした缶ビールを私が開けたときに、泡が予想以上に盛大に噴き出し、近くにあったノートパソコンのキーボードにまで飛んで零れ散ったため、電源すら入らなくなり、その修理代がざっと五万円近くになりました。


原因発生の軽さと、修復負担の重さが対称的で、現実に対して信じがたさの残る点で共通性を感じました。


「注意一秒怪我一生」

という警句にもあるように、あっというまに起こることで、なかなか耐え難い事態に陥ることは人生で幾度か体験することがあるのではないでしょうか。


車のボディを擦ったときは私も同乗していましたが、少しも家内を責める気持は湧きませんでした。

家内の失敗は、噛みしめるべき人間の失敗として慎んで受け止めた感じでしたし、また問題解決の原則から、変えられない過去に注文をつける無意味さが理解出来ているので、そちらの方向に思考が流れないのが習慣になっています。


それより、あっさり諦めて平静だったのは、実は経営模擬体験を積むためのゲーム歴を通じて、リスクに対する落ち着き、喪失に対する心の耐性が養われていたことが大きく影響していることをこのたびも感じました。


ゲームの上であっても、深刻な打撃を受け前途が暗くなると、 大のオトナでも始めのうちは苦痛を感じ不機嫌になったり反発を催したりするものです。

またそうした反応が自分の中で変化する可能性など考えもしません。

しかし、実際に100期、200期と経験を積んでいくと、いつのまにか、以前は動揺していた火災などの大損害にも「何のこれしき」「まだまだ」「望みはまだある」などと対処できるようになります。


そして、その変化に関しては決してゲームという場に限定したものではなく、人格的に変わったような実感が伴うのです。

実際に同程度のことが起こっても、恐らくは落ち着いているような気がして仕方がないのです。

そんなことを言うとと不遜な感じを与えやすいので余り口にはしませんが事実です。

またそれは、責任や重大さを感じないという意味ではありません。


長い繰り返しと積み重ねによる錬磨的な変化には重いものがあり、にわかに追いつくことは出来ません。

通常は意図的形成が難しい人格的能力の中に、疑似体験ゲームによって培うことの出来るもの、ゲームのみが有力手段となるらしいものがあるということは興味深いものがあります。

経営者を目指す方以外にも「社長ゲーム」をお勧めします。


(旧メッセージナウ2006年7月16日記事より)