ガンの価値観(その2)

これに対して、正常な細胞や臓器の性質にあたる個人の判断尺度・行動原則というのは、自分が活かされることと全体への役立ちとが両立する生き方のことです。


もしかすると、そんなことはできないとか、とても難しいと思ってはいませんか。

または、できるとしても自分はいやだと考え、その考えを曲げられたくない思いがありませんか。


実は人生の初期において、そのような気持になり、そのような考えに慣れていくのは、むしろ自然な部分があるのです。

それは、赤ちゃんに始まり、物心ついてから一人前になるまでの間、周りから貰う一方の生活が堂々と当たり前のものとして認められ、実際にそれ以上のことは考える必要のない時期が結構長くあることと密接な関係があります。

つまり、依存期の生き方を人生全体に及ぼしてものを考えてしまったときそのようになるのです。


ここではっきりさせたいことは、自分の生存と社会への役立ちとの関係は、は決してシーソーのように一方が上がれば一方が下がると決まったものではなく、むしろ一方が進むほどもう一方も進むというパターンに持ち込むことが充分に可能だということです。

つまり、社会の役に立つほど自分のためにもなるという関係を築き、それを背景として、せっせと役割を果たしていればおのずと自分も快適に生きられるカタチがあるということです。


たとえば職を持つということは大体においてそういう関係に入ることです。

ある腕のいい大工のAさんは、次に仕事を頼みたい人がいつも待っていて、仕事をすればするほど役に立って喜ばれ、手間賃も余計に入ってきて豊かになります。

しかし、同じく大工さんでも、ガンの価値観が抜けないままで職に就いたBさんは、役に立つことは自分のために反するという気持ちですから、なるべく手抜きをしたり材料をごまかして仕事をします。

ところが、景気が悪くて仕事の少ない時期には、先に仕事がなくなるのはBさんの方です。

Aさんの方は、最悪の時期でさえとうとう仕事が途切れることなく、何事もなかったかのように通り越すことができました。

こういう現象は実際に起こっています。


クビにならない職種の人の場合、ともすれば定年まではもちろん一生涯、ガンの価値観から卒業できないまま過ごすことになりがちであることも、頷けるのではないでしょうか。


(旧メッセージナウ2006年8月5日記事より)