ガンの価値観(その3)

身を守ろうとするガンの価値観がなぜ却って身を危うくするのか、それは存立のために活かすべき情報またはその情報を活かす仕組みが欠落しているからと考えられます。

つまり、全体の中での自己の役割・立場に関する情報にホッカムリをして、ごく直接的な分かりやすい得失判断だけで行動選択をしている形なのです。

将棋で言えばほとんど先を読まないで指しているような状態です。

「損して得取れ」という言葉がありますが、ガンの価値観では、その損がどう巡って得になるかを考慮しないので、小さな損をかたくなに防いで大きな損を招くだけでなく、周囲にまで害を及ぼしてそのあおりで自滅を早めることが習いのごとく繰り返されるのです。


ガンの価値観を越えて到達できるもう一つの価値観を、ガンの病巣に対する正常な臓器になぞらえて「臓器の価値観」と呼ぶことにします。

各種臓器はほとんど他の臓器や全体のために働いて、自分も周囲から活かされる関係の中にあります。

その動きは、あたかも自分が生きることは周囲や全体に支えられているし、自分のはたらきが全体の存在を支えていると認識しているかのようです。


社会全体における個人や組織、国家などは、臓器のように固定した役割が割り当てられているわけではないので、そうした関係は作ろうとすれば大抵はできるし、無頓着であればできにくいという環境にあります。


ガンの価値観の基本認識が自他対立(他がよくなれば自分は悪くなる、それが必然で仕方がない)なのに対して臓器の価値観では自他相関(他がよくなれば自分もよくなる、それは可能で望ましい)となります。

このように書くと、ガンの価値観と臓器の価値観は陰と陽のように同等な対極にあるかのようにも見えますがそうではなく、これらは子供と大人のような成熟性の段階の違い、具体的には成立基盤となる情報の充足度の違いからきており、レベルの違うものです。


ガンの価値観のレベルでは、自分が損になるような役立ち方しか思い付かない場合が多く、ヤッパリ役に立ったら損をしたという“経験”を繰り返して、ますますガンの価値観を強固にしてしまいがちです。


(旧メッセージナウ2006年8月7日記事より)