思考停止圧力 2006.9/22

九月の十七日(日曜日)、台風十三号が九州に接近する中、自宅から福岡空港に向かいました。


この夏、台風が宮崎まで来ている中でも、福岡は比較的穏やかで飛行機は出発できたこともあって、まず大丈夫だろうという考えが心を占めていたこともありますが、新幹線の中でも、どうしてか最悪の場合に備えての手も打たず、心が動揺するでもなく、この平静さは不思議なほどだなあと何度か思いながらの博多到着でした。


実は、もしも飛ばない場合があるとしたとき、そのために取るべき対応、たとえば広島空港発への切り替えは恐ろしく面倒な上に不確実性もあり、考えたくなかったのだということを今は認識できます。


言うなれば、

「ここは兎に角、福岡から飛んでもらうしかない」

という運命頼りの状態に陥っていたのでした。


それなのに、意識としては

「飛ぶような気がする」

といった感じで、安全なき安心の境地そのものでした。


博多に着いてみると、まだ午後三時台なのに

「のぞみは最終便となります」

とアナウンスしていて、人々は小走りに九州から本州方面への脱出便に乗り込もうと急いでいました。

さらに予定通り地下鉄で福岡空港に着いてみると、結果として、その日の予定は全面欠航という現実に直面したわけです。


すでに新幹線は止まってしまっていて使えないので、八幡の親戚に泊まろうと電話をしておいて切符を買おうとすると、事態はさらに進んでいて、在来線も全面ストップ、博多から出られないことになりました。

同じような人が沢山いるので、福岡市内のホテルは今からでは見つからないという状況でした。

結局は互恵ネットの有り難さで、市内の会社事務所の鍵を開けてもらい、簡易ベッドを設けてもらって泊まることは出来ましたが、大いに反省したわけです。

その要点は、不思議な落ち着きと安心は、実は思考停止にほかならなかったということです。


人間は、ある危険性に対して容認しがたい困難な対応が必要となる場合、そんなことは起こらないと信じる道を選び、もしそうなった場合という想定を排除し、考えるのを止め、同時に考えることをやめているという認識までも抑え込んで、落ち着きと安心の状態に入るということです。

警告的な情報にも、逆に諭すがごとく安心論を主張したりします。

この度のことは、そのことを私に気付かせるための出来事であったように思われてなりません。

いずれにせよ結果として、その気付きによる収穫は天からの授かりものと思えるほど大変貴重なものがありました。


ほとんどの経営者・ビジネスマンは、従業員や家族に対して負う責任の大きさにも関わらず、ハイパーインフレや国家破産に直面しなければならないという場合を、余りにも手に余る困難であるために、

「きっとそんなことは起こらない予感がする」

という信念に誘い込まれて、思考停止をきたしているという現状を、改めて理解出来たように感じました。

この思考停止の仕組みは、苦痛が激しいと気を失うというメカニズムと似たようなものかも知れませんが、決して危険を軽減する訳のものではありません。


「もし、そうなったら、お手上げ」

という場合にこそ、気を確かに持って、できるだけ傷を浅く収め、せめてもの残る希望を確保する対応をしなければならないことを、もう一度振り返りたいと思います。


「無傷でなければ死も同然」

と言うに等しい理屈や発想は、いざ傷付いたときの軽傷と重症の大きな違い、まして死ぬこととの違いの大きさに少しも配慮せず、軽傷で済むはずのときに、一挙に死を迎えてしまうような運営をしていることになるということです。


(旧メッセージナウ2006年9月30日記事より)