松陰の指導 2006.10/11

萩市に入る国道の道の駅に吉田松陰記念館があり、そこでは松下村塾における吉田松陰の指導を再現した弟子とのやり取りが音声で流されています。

おそらく、語り伝えられたエピソードを元にした話だと思われます。


その中で、塾生の一人が、自分は記憶力が弱く本を何度読んでも憶えられないのだがどうしたらよいでしょうかと尋ねると、松陰は

「それはよいことです」

から始まり、本は憶えようとして読むのではなく、繰り返し何度でも読み味わうことが大切で、幾度となく読んでいるうちにおのずと意味もわかり憶えていくものだ、単に憶えただけで満足するのはむしろよくない、といった意味の回答をしていました。


これは決して気休めや慰めではないのですが、もしかすると弟子の悩みに対してはぐらかしているように受け取る人があるかも知れません。


しかしながら、松陰の指導は実に要点を突いていて、今更のように感心したのでした。

それと同時に、上記のように、生徒の問題に正面から答えていないかのように思う人も少なくないだろうなと思った次第です。


見識や知恵を伝える密度の濃い文章や記述については、内容を記憶して良しとするのは、資材を倉庫の棚にしまっておいて指定されれば間違いなく取りだせるような格納方式にあたります。

これに対して、味わっては考え、とくに現実の体験や見聞に照らして理解納得、気付きを深めていくような読み方は、その資材を使う現場に配置したり組み込んでいって、機会に臨んでおのずと発効するような保持の仕方に相当します。


倉庫収納型で実現するのは「可達性」、現場配備型では「約発性」という効果が得られます。
(いずれも情報活性化理論の用語)


いつの頃からか、我々は本来活きた知恵として身に付けているべき学問を、憶えているかどうかによって評価することに慣れてしまい、さらには憶えることを目標として書を読むようになってしまっているのです。


松陰の指導は、そのようにして歪んでしまった学問のあり方に追随させるのではなく、本然の姿に戻る道を示すものにほかならないのです。


たとえばここに、相当数のことわざとその意味を一覧化した資料が有るとします。

それを一読して憶えて説明が正確に言えるようになり、その後何もしないが忘れない人Aさんがいるとします。

片やBさんは憶えようとしないでただ何度でも読み、読むたびにより深く味わって納得し、そういえばあの経験はこれに当てはまる等という気付きを加えていったとします。

ゆくゆく何かの場面でちょうど的確なことわざが自然に浮かんできて、よりよい判断やコミュニケーションに結びつくのはどちらかと考えると、あきらかにBさんの方であろうことは理解されることと思います。


あらためて、吉田松陰の教育者としての本物らしさに触れた気がしました。


(旧メッセージナウ2006年11月3日記事より)