振り出しに戻れる自由 2006.11/16

ニュートンとライプニッツは、ほぼ同じ時期に微積分を発見したのですが、ニュートンは自分の方が先だったということに、とてもこだわっていたそうです。


それというのも、勢いを得て広まっていったのは、ライプニッツの方式で、その理由は、ニュートンの数式の表し方が複雑であり、ライプニッツの記号法は簡単であったことによるようです。


研究のある段階で仮に選択した記号や用語や理論の構成について、あとになって不十分な点が明確になり、根こそぎやり換えて別の方式で筋を通す必要性が、研究の節々や終盤で発生することがあります。


新たに突き止められた知識や原理の本質は共通でも、表し方が異なったり対称的なものとなることで、まるで別の印象や効果を与えるものです。


苦労して開発に成功した人の発表した製品は、武骨でただ動くだけだが、その原理を真似て二番手で発売した製品はスマートさも兼ね備えていて市場に受けるといった現象は起こりえます。


ニュートンは優秀で、複雑な記号も簡単に扱えて苦にならなかったのかもしれませんが、発表前に、開発途上慣れ親しんだ自分の記号法を一旦離れて、その時点ではもはや意味を持たない複雑さを徹底排除して必要最小限のシンプルな記号体系にやり直していたら、流れは違っていたかも知れません。

あるいは、そんなことより少しも早く発表することを優先したのかも知れません。



私の場合、社会的に重要と考えている研究ほど、スポンサーを求めないで私費で進めてきたのは、いつでも自由に振り出しに戻して組み立て直すことが出来る状態を大切だと感じているからだということを最近改めて自己認識する機会がありました。


一度ならず、節目ごとに解体・再編成というプロセスを実行している間は、研究が停滞しているように見えます。

金銭面で支援したり参加している人には、それは不満な状態に映るでありましょう。

賃仕事にしてしまうと、少なくともそういう組み立て直しの作業に踏み切る決断は鈍る可能性があり、それが元で成果物が今一つ洗練され損なって世に出てしまうことも懸念されるのです。


最後に残る方式をはじめから採用すればよいではないかと思われるかも知れませんが、乏しい情報で推論するより、やってみたほうが早い、すなわち試行錯誤が最も能率的な進め方であるというケースはしばしばあるものです。

選択肢が限られている場合は特にそうです。


およそ実験といったものは、やってみたほうが早いときに行われるものです。

仮説通りにならなくても、そこで一定の情報が得られ、研究は前進します。


(旧メッセージナウ2006年12月14日記事より)