安全なき平然(その2) 2007.3/29

靴との出合いは、それまで裸足で平気で歩けた毒蛇のいる草むらを恐怖の対象に変えましたが、同じ危険に対して、靴を知るまでは恐怖がありませんでした。


ある危険の回避方法が未知または未承認(非現実視できる状態)の間は、その危険に対する心配が抑え込まれたのです。


恐らくある時期までは、彼らが靴というものを目にすることはあっても、欲しがる(受け入れる)気持ちにはならなかったのではないでしょうか。

 出合うには出合っても認めないこと、

「靴のようなものは我々の現実の生活には関係ない」

として、一度たりとも受け入れず慮外に置くことで、草むらの毒蛇に対する恐怖心が封殺されるというわけです。


一般大衆が「甘境幻想」に流れる傾向は以前から分かっていましたが、これも危険の適正把握や対応の余地の認知が恐怖心の発生につながるため、それを避けようとする反応と見ることができます。


これから本格的に訪れようとする社会・経済における異変の予測も、話を素直に聞く人もありますが、多くの人々は妙に馬耳東風で楽観論から出ようとしません。


環境問題に対する能天気な態度の形成にも、また安心米や共同体通貨の話への無反応にも同様のメカニズムがはたらいていると考えられます。


「あるはずがない」

「あるとしても自分らには全くどうしようもない」

と考えることで、恐怖の発生が封じられる効果が応用された形になっているのでしょう。


まとめると、恐怖心の封じ込め反応として、対策の可能性を否定する(転原他在)か、危険性そのものの存在を否定する(安全神話)かのどちらか、または両方が見られるということです。


到底容認できないほどの危険性なればこそ、対策の余地を探らなければならないにもかかわらず、対処可能性を否認・放棄して安全なき平然、安全なき安心に陥りがちな心理を乗り越えるためには恐怖心の封印をみずから解く勇気が必要ということでしょうか。


問題解決の実践経験の蓄積は、そうしたとき敢然と現実策に向かう心を支えてくれると共に、靴が毒蛇から足を守るように、成果物としての方策は実際に人生の可能性を守ってくれるでありましょう。


(旧メッセージナウ2007年5月18日記事より)