理不尽に耐える 2007.7/26

小学生だった頃の息子に、旅行先などで物を置きっぱなしにして盗まれるような場合のことを、盗られる方が悪いというような言い方をしたとき、子供の口から即座に

「盗ってもいいの?」

という言葉が出たのを聞いて、とっさに十分な受け答えができなかったことがありました。


私が示そうとしていたことは、子供の心の中で秩序づけて収める能力に余るものだったようだということだけはわかりましたが、この現象の本質が何なのか、何年間も心に引っ掛かったままでした。


いま分かってきたことは、子供心におよそ「ルール」というものが一様に従うべき、いわばルールのルールとも言える一般原則があるに違いないのであるという認識が生まれていたのではないかということです。


あるルールが納得され守られるにはそれが誰にも平等に適用されなければならないという平等の原則のようなものもそれにあたるでしょう。


要は、そうしたルールのルールが守られないことは受け入れることは出来ないし、受け入れなくて良いはずだ、さらには受け入れてはならないという基本認識が形成されつつあったのでしょう。


私自身も若いころから、貧乏その他の苦労に耐えることにかけては、自らを鍛える意識で積極的に取り組んできたつもりです。


その半面で、振り返ってみると、理不尽の類に関しては、耐えるどころかたちまち糾弾姿勢になって、いつの日か暴き裁かねばならないというような反応がなかなか治まらなかったように思います。


しかし考えてみると、それらも世の中の試練の一種なのであり、どこまで耐えられるようになるかが修養の出来具合と見ることもできます。

耐えられないというのは、腐って恨みが沈着して復讐心を持ったり、辞めてやるといった反応に追いやられたり、各種不適応症状に陥ることです。

これは正義感による行動とは別の次元であり、要するに耐える器が足りない姿です。


こうした見方(があるということ)を早いうちに知っておくかどうかどうかは、ときに重要な違いをもたらすであろうと思います。


(旧メッセージナウ2007年8月9日記事より)