重点指向と志 2007.8/9

若いときは誰もその傾向があるかと思いますが、たとえば上司から、二つ以上の重要業務を同じ時期に間に合わせるように指示されたりすると、困惑してしまい、

「一つ済んでから次に取りかかるのでなければ、自分にはできない!」

という反応をしがちな人がいると思います。


自分の裁量で進める場合でも、優先順位を決めて一つずつ片付けていこうとします。

そして、長期的・総合的にも一生の限られた時間の中で、できるだけ絞り込んだことのみをやろうとします。

その方が効果的なはずだと考えるからです。 私もかつてはそうでした。


ところが、あるとき天命自覚体験を経て自分の志が非常に鮮明になってからは、いろいろなことの適量・適度というものの感覚・判断がずっと敏感になりましたが、行動の方は絞り込み集中型から離れ、むしろ雑食動物のように色々なことを幅広くするようになりました。


というのは、人間一つのことをしっかり成し遂げようと本気になったときにこそ、そのために間接的に必要なこと、すなわち裾野の部分が広くあってはじめて頂上が高くそそり立つことができることが実感され、頂上に積む土も裾野に積む土も同じように大事で必要なものに感じられて、手掛けることに抵抗が無くなるのです。


研究の世界でも、研究の領域を限定するほど何らかの実用目的とは縁遠くなり、逆に目的を全うしようとするほど特定の領域に留まることができなくなるという関係があります。


自分で決めた枠に閉じこもって、手慣れた専門のことに終始して、納得がいくまで時間をかけて、出来たところまでを、ここまでやりましたと言えば済むとすれば、気は楽でしょうが、仮に紛れもなく役に立ったと言える業績を上げたとしても、本来の可能性に対しては案外小さな山を築いただけに終わる可能性が濃厚と言えます。


志のしっかりした状態では、明らかに裾野に入ると目されることはゴーなのです。

それに対し、裾野にすぎないことだからとバッサリ切り捨てる行為は、一見合理的に見えて、多くのついでにできることの機会を逃し、後でヤッパリ必要だったと気が付いてもなかなかできなかったりして、多くの無駄や不足を生みます。


重点指向がいつの間にか自分の殻になり、背骨だけで生きて行こうとするような傾向に陥らないよう心したいところです。


(旧メッセージナウ2007年8月17日記事より)