禍本の福(かほんのふく) 2007.8/17

あることが通常の期待を越えてうまく行ってしまったとき、多くの準備されたものの状態が焦点を外れてきて、無いものだらけという、一見困った状態を呈することがあります。


当然、周辺関係者からは、不満の大合唱となりがちです。

しかし、それが実際に不幸かというと、実は本来嬉しい悲鳴ではあっても、悲しむ場合ではないということがあります。


史上はじめて予想外の甲子園出場を果たした高校野球部の、にわか応援団のバス旅行の数々の不手際を想像されたい。


また新規開店にあたり席数の何倍もの客が並んで厨房の能力が追いつかないときの料理長の怒号を思い浮かべていただきたい。


その難儀だけ取りだすと確かに苦難であるが、その前にある幸せを込みにして考えると、残念がるほどでもないという形です。


成長期の子供は成長して伸びる部分に由来する成長痛なるものを経験するようですが、これなども喜ばしい変化に伴う苦痛であり、苦痛だけに目を向けてそれを避けようと、たとえば成長を止めるホルモンを注射しようとするような、短絡的反応は一般的には賢明とは言えないでありましょう。


ひるがえって、我々の日常の不満というものは、実は大方は(あるいは全て)そんなものなのだという考えがあってもよさそうです。

全体状況の自覚が先行する場合ばかりではなく、派生的困難の方が先に体験されることもありえるからです。


ひょっとすると、望外の幸運なポイントにいるが故に発生しているアンバランス、適応不足の現れかも知れない訳です。


良すぎる展開に多少の周辺的不具合は付き物でも、その展開自体は歓迎できるはずです。


つまり、 いくらかの難儀があるとしても、それは比較にならないほどの大幸運あってこそのオマケ程度のものであるというような基本構図で見ていくところに、はじめて気が付く

「身の幸せ(=活かすべき基本的機会性)」

というものもあるのではないでしょうか。


こういう「禍本の福」とでも言えるようなものをしっかり捉えられるようになれば、心が治まるということだけでなく、その「福」の積極的活用のレベルが向上し、幸福度の向上に大いに寄与できることと思われます。


そもそも人間は生まれてきただけで超幸運であり、ありがちな不満や不運の類は、大きく見えても小さいことだという考え方も出来ます。


こうしたことは、少なくとも当面は事実のほどが分からないだけに、どう考えるかも自由の余地があり、だったらどう考えるのが良い(賢い)かというところに、科学とは違った哲学の領分もあるということだろうと思っています。


「子供は天からの授かりもの」

という認識が母親や家族の子育てストレスを緩和し、教育上の影響が多大な乳幼児期の子供への接し方を、かろうじて望ましい域にとどめるとしたら、そのような考え方や受け止め方は個人にとっても社会にとっても大きな価値を持つことになります。

 … 子宝あっての夜泣き … 


(旧メッセージナウ2007年9月1日記事より)