組織と個人の損得中心化   2007.10/3

損か得かという尺度による判断を優先して行動選択するようになっている組織や個人は今や社会に溢れています。


「損得中心でどこが悪い」

とばかりに、みずからそうなっていることを認めてはばからない人々も多いと思われます。


理念のない組織、志(人生理念)のない個人が、共有の行動指針を必要とする余り、総意の最大公約数として損得中心が疑似理念となる傾向があり、それは現実を観察すればわかることです。

ただ、理念のない人々は、そのこととの関係は関知せず、組織・人間は元々みな損得中心なのだと思っているのではないでしょうか。


立派な趣意書や理念が存在しても、そこにいる人々が意に介していないという場合も、同様のことが起こります。


問題は、現在あまり恥とも思われない損得中心が、実は恐ろしい状態への傾斜を招くことへの因果関係があるにもかかわらず、そのことが一般に認識されていないらしいことです。

その変化の筋道の例を少々細かく砕いて追ってみると次のようなものです。


理念不在→損得中心→利益優先→合理節約→省略増加→手抜進行→実質詐称→合法害悪→良心鈍麻→虚偽拡大→裏面発達→良心排除→脱法隠蔽→腐敗浸透→非道常態→犯罪体質→実態露見→事業破滅


企業や政治の相次ぐ不祥事を見ても、

「なんて悪い奴らだ、しかし俺たち一般人は違う」

と言わんばかりに平然としている人々も多く、自分の所属する所も含めて、世間の組織のほとんどが同じ滝壺に向かう川を流れている状況には、目を背けているような状況があります。


自覚のある人々も、今更後戻りはできそうにないために沈黙しているのかも知れません。


告発しても大方は誰の得にもならないために、表面化が抑止されている関係もあるのでしょうか。


あるいは、仕事というものは多かれ少なかれ公表できない部分を持つものであり、それがオトナの認識だといった受け止め方もありましょう。


ともあれ、真性の損得中心(=利己)は、例えば恐ろしい伝染病への感染の兆候を、それと知らずに平気で晒して歩いているようなものです。 


「嘘は泥棒の始まり」ということわざがありますが、小さなごまかし程度のものが、やがては大きな悪事につながって行くことへの警告を軽んじると、気がついたら取り返しのつかない体質になっているかも知れないのです。


(旧メッセージナウ2007年10月3日記事より)