志と命・命がけに値するものを持つ幸せ 2009. 3/15

多くの人は自分の命が一番大事で、そのほかは生きていることを前提として、その人なりの諸事の価値づけをしています。


しかし一旦「志(天命・人生理念・大義)」に目覚めると、自己の生命は志を遂行するための材料の一つとなり、一種の逆転が起こります。


私がよく言う

「自分のための何か」

から

「何かのための自分」

への、生き方・意識の転換です。


この序列の反転があってこそ、真の「立志」があり、「志士」の誕生と言えるのです。


利己心の枠内で、格好を付けるために理念をたてようとする人には、この転換が起こりません。

そのことはおのずと言動に現れますので、経験者から見れば、判然としています。


それでも、文言をそれらしくして人生理念と称するものを作ることはできるかも知れません。

そこまでして時代の志士をきどっても、「ニセ志士」ぶりは隠しようもありませんから、滑稽な話になります。


利己心がなぜ転換を妨げるかというと、命より大事なものに目覚めてしまっては、相対的にこの大事な命を粗末にするようになると想像し、そんなことはまっぴらだと拒否したくなるからです。


ところが実際は立志を経た後の方が、自分の命の大切さの認識は低下するのではなく、より高まると言えます。

それは、ただ生きているだけの命よりも、重大な使命を自覚して遂行している命の方が、天の意志に適い、より役に立っていて、存在意義も大きいことが明らかだからです。

したがって、立志以前よりも堂々と、理由を持って生き、より胸を張って自分の命を大切にできるようになります。


チンケな禁欲主義や失敗願望、不幸願望のような、背後で利己心とつながった偏向から解放されて、楽しく生きることにも抵抗がなくなります。


そうした中の特別なケースとして、訳があって死を選ぶこともありえましょう。

しかし、そのときですら、意味のある命の終え方の方が、そうでない死に方よりも納得感が強いだけ救われているはずです。

惜しまれつつ平然と死に臨む立派な姿は、命を粗末にしているのとは全く違います。


片や利己の生涯を送った人は、たとえどんな意味があっても死ぬのは御免で、それでもいつか訪れる死に際にあたっては、人に惜しまれない命を自分だけが惜しみながら、いやでも失われる命に執着し、苦悩と絶望にさいなまれて最期を迎えるようになります。


大切な命に優る大切な使命を持って生きる嬉しさは、目覚めてみればかけがえのないものです。


(旧メッセージナウ2009年3月15日記事より)