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志士群現象と超主体 1990.1/30

「国乱れて忠臣出ず」という言葉がありますが、ある国家や民族の危急存亡の時などに、その危機を救うため、自ら捨て石となって身を挺して働く人々が現れる―といったことは、歴史の中でたびたび起こってきました。

 

 

個人としてはまるで報われることのない、あるいは、成果を自分の目で見ることもできない将来のために、同時多発的に、少なからざる人々が、

 

「何としても今、やらねばならぬ。」

 

という意識を共有し、社会に一つの流れをつくるべく活発に動き回るのです。

 

 

このように、ある時期、「全体」のために犠牲を厭わないで、共通の方向に添って働く人々が出てくる様を、「志士群現象」と呼びたいと思います。

 

 

まず浮かぶ典型的なものは、日本の幕末の志士達の出現ですが、諸外国においても、国難の時期、建国開拓の時代などに、探せば例はいくらも出てくると思います。

 

 

昨年、北海道を旅した折に、北海道開拓使の特に始め頃、多くの人々が、丁度そのように意識を共にして、並みでは考えられない程に心血を注ぎ、真心を尽して基礎を築いた歴史があることを知らされました。

 

「志士群現象」の概念は、その時に結晶したものです。

 

 

さて、現在は、全地球の規模で、この志士群現象が起こっている兆しを見ることができます。

 

言うまでもなく、地球全体がかつてない重大な局面にさしかかっていることを背景としています。

 

<地球意識>といった類の共通する想念をもって、多くの人が動くようになっています。

 

 

ここで注目したいのは、この志士群の個々の志士達が目的として意識する「全体」とは、果たして観念上のものに過ぎないのかどうかということです。

 

 

社会生活をするハチやアリのような生物は、個体レベルでは全体のことを認識する知能はないと思われるのに、全体のバランスを回復するなどの必要を満たすように役割の違う個体に変化したり、また、あたかも見えない指揮者が采配しているかのように協働して組織的に動いたりするようです。

 

同様の機能が人類に無いと言えるでしょうか?

 

 

こうした、物理的に説明のつかない協働を<超協働>と呼び、またこの「見えない指揮者」であり「全体」であるようなものを<超主体>と呼んでみたいと思います。

 

人間が志士になるのは、この超主体的存在と<共振>して、いわば「超主体意識」に目覚めた時だと考えられます。

 

超協働も、それに付帯して起こる<超確率現象>も、志士群現象全体も、「超主体効果」と考えれば説明が簡単です。

 

 

(旧パイプ1990年1月30日記事より)